聞き手の役割

私は、圧倒的に聞き役に回ることが多いのだが、人はたいてい「話したい」と思っているのだそうだ。
そう認識したことはあまりなかったので、改めてそう書き記してあるものを読んで、ある種の驚きの念を抱いた。

私は、普段の「おしゃべり」においては、自分の思う事、考えを人に言うべきかどうか、躊躇することがしばしばある。
言葉を発する前に、自分の立ち位置を確認してしまうのだ。
仕事中は立場がはっきりしているせいか、考えを表に出すことは楽なのだが、プライベートであると、いろいろな憶測が頭をよぎる。
そうこうしているうちに、会話に花が咲いて、私は聞き役に回る。

聞き役は損な役回りなのだろうか。
そういった印象を受けることが多い。

でも、私は人の話を聞くのが好きだ。
聞けば聞くほど、興味がわく。

どんな些細な話でも、人の話には決して同一の経験をすることができない、新しい発見があって、冒険の様な気分だ。


自分も試してみたい、経験してみようか・・
あるいは、そうしなくてよかったな・・なんて場合もあるけれど。

私は、すっかり得をした気分になるが、話した方も「ああ、すっきりした」とよくおっしゃってくださる。




さて、たまに家で発した言葉を家族がどう受け止めるのか。
他人と違って、家族は「遠慮のない聞き方」をするから、自分の心の動きを見てみると、面白いことを発見する。

聞き手が興味を示さないことは、どのくらいのダメージに値するだろう。
一昨日、同じ内容の会話を別の人とかわし、その時の前向きな気持ちは、あっという間に地面に這いつくばったようになる。


もう1つ別の側面から見てみたい。

人の話に興味を示すことは、ある種、自分の中身の変化を認識することではないのか。
「変化」に柔軟な思考を持ち合わせているのか。
また、「変化」を起こす発信源を差別していたりはしないのか。

ここからもたらされる「変化」は良いことに決まっている。
こっちからの「変化」は取るに足らない。

このフィルターは何かを見落としてしまうような気がしてならない。


こうしてみると、話し手よりも、聞き手によって人は操られたり、勇気づけられたりし、また、話し手が何を話したとしても、聞き手のフィルターの厚さによって届くかどうかが決まってくるという事か。

聞き役は、やはり面白い。